コラム

松村信吾『ごるふ昔話』vol.①〜「PCM」コンテンツメンバー連載

筆者:松村信吾(ハカセ)

ゴルフ黎明期以降の歴史に興味を持ち、独自に調査・取材を敢行。

クラシッククラブやクラシックスタイルのスイングにも造旨が深く、ヒッコリークラブの修理や製作も自ら行う。

「PCM Labo」にも現れ、イラストレーター・渡辺隆司氏が「ハカセ」のニックネームを命名。

(松村信吾イラスト:渡辺隆司)

 

 

#1 最初の日本人ゴルファー

 

        最初のゴルファーは海軍さん

日本のゴルフ史においてまず最初に注目されるのは、【誰が最初にゴルフを行っていたのか?】という事である。

この話題というのは日本のゴルフについて振り返る動きが出始めた1930~40年代にかけて度々取り沙汰されており、現在も気になる資料が幾つか出てきているのだが、

そういった中で名前がはっきりと残っている記念すべき最初のゴルファーは、今回の主人公である海軍中将で工学博士として日本製鋼会長も勤めた水谷叔彦(1865~1947)とされている。

水谷がいつゴルフと出会ったのかというと、1896年に海軍士官学校を卒業した後に技術士官として英国グリニッジの海軍大学に留学するのだが、その際同窓のアメリカ海軍士官二人ロバート某とダニエル・コックス(後アメリカ造船協会名誉書記)の誘いでゴルフを近郊のブラックヒースのコースでプレーを始め、翌年の帰国までの二年間に定期的にプレーを愉しんでいた。時に水谷31歳の事である。(※本人の回想では数え29歳となっているのだが、JGAの調査では満31歳であるため、後者を採用した)

 

        当時のゴルフ事情

これは『日本打球(前Golf Dom)』1943年6月号(P20-21)に掲載された、彼の回想の一節をまとめた『老ゴルファーの思ひ出』からの紹介であるが、それによると、ブラックヒースのホール数は4ホールで平坦なレイアウト、プレー可能な期間が定められていた他、共有地なので一般人対策にフォアキャディがプレーの先導をしていた。

使用クラブはドライバーとマッシー、パターの3本。ヘッドは「現在(1943)より少し大きかった様に記憶」をそのまま運んでおり、アメリカ仕官達も3〜4本の使用であった。

使用ボールは勿論ガッタパーチャで、キズがつけばクランク(恐らく家庭用のボールモールドの事)で再プレスし、塗料を塗り直して使った。とある。更に水谷は「当時のロンドン近郊にはゴルフコースが少なく、英国人士官たちは他のスポーツに興じ、ゴルフをする者は居なかった」と書いており、その理由として『学生のスポーツとしてはサッカー・クリケット・テニス位で矢張りゴルフは年寄りのスポーツであったのだろう』と回想している。

丁度当時のイングランド(特にロンドン周辺)ではゴルフに対する反感が大きく、若き日の政治家アーサー・バルフォアがゴルフの効能を熱心に説いて廻りブームを迎えるまでの間、スコッチ・クローケと各方面から嘲笑と攻撃を受けていた事を考えるに、水谷がプレーしていた時期は同地でゴルフブームが起きる前の空白期であったのだろう。

 

        回想とリアルタイム資料の差

この話が、摂津茂和をはじめとする史家やライターの方々によって後年紹介され現在定説となっているが、彼の回想に関して気になる点を幾つか挙げてみると、『日本ゴルフ協会七十年史』内の『日本ゴルフ事始め』の注釈に彼の日記からとして、留学を命じられたのが1893年6月22日で、同年7月に甲鉄艦発注の為英国に赴く宮原少技監(後の海軍中将宮原二郎か)に同行する形で、アメリカ経由で渡英した。と紹介されている。これだと彼の語る渡英時の年齢に辻褄が合ってくる。またゴルフについては1895年3月27日付の日記に「午後、Hearthを散歩し、Mr. Charltonに会いてGolfを見る」とあり、翌96年1月1日の「午前Golfingヲ為ス」とあること。そして後述する『Golf(目黒書店)』1940年6月号の、後述する八十路会の記事で「明治28年(1895年)にゴルフを始めた」と紹介されていることから、プレーはこの間のどこかで始めていたのでは、と推察する。

 

        回想と記録の差~コースについて~

プレーしたコースは当時のロイヤルブラックヒースGC(1608年に国王ジェームス1世や臣下達が同地でプレーをしたのを起源とする倶楽部)のホームコースで、俱楽部史や当時のゴルフ年鑑『Golfer’s Annual』にも共有地かつ公園内に在る為プレー時間が決められている事やフォアキャディの事が記載されている。ホール数は7ホールである(370・355・380・540・500・230・440=2815yd)。これは水谷の記憶違いか、それとも一般ゴルファーには何らかの制限があったのだろうか?

また当時の一般的なクラブのセットは、ウッド1〜2本、アイアン(パター込)4〜5本の合計5〜8本位。それの比べて彼の使用本数は随分少なく、しかも当時のマッシーは物によってロフトが大分違うものの、ピッチショット用クラブである。ブラックヒースのコースは当時のインランドコースの中では距離の有るレイアウトなので、プレーがし辛かったのでは?と思うが、愉しみとしてのゴルフなので彼にはあまり関係が無かったのか。

 

        忘れられていたパイオニア

帰国後の彼はゴルフの表舞台に現れず、東京GC(1941年の移転の際に退会)の会員であった他、70歳以上のゴルファーによって結成されたグループ八十路会のメンバーとなった際、同会の第一回競技で参加者間の『最初のゴルファーは誰か』という話題から名前が上がり、同会のオブザーバーであった下村海南博士が雑誌『Golf(目黒書店)』1939年12月号で、なんと彼は水谷からよく教えて貰ったのに年代を忘れてしまい、年が明けた1940年、5月に行われた第二回競技での歓談から各位のプレーを始めた順番が分かり、同誌6月号で下村が改めて紹介し、記者の小笠原勇八(後JGA事務局長を務めた史家)の撮影した写真と共にようやく歴史の表に出てきて、更に3年後、冒頭に紹介した『日本打球』に回想の記事が載るのである。

 

        後年の表記についてのブレ

この件について気になる事がある。後年史家の摂津茂和が『日本ゴルフ60年史』で水谷について触れた際、初版の有明書房版では1943年の水谷の回想について載せているのだが、数年後、同著の補足抜粋として出版された『サムライのゴルフ(風光社)』で年代が消え、“1940年に水谷を『日本ゴルフドム(Golf Dom)』が見つけ話を載せた”としており、伝え聞くと当時の編集長であった沢寿郎(後鎌倉市図書館長)が彼を見つけ出したと有って水谷の回想に移る文の構成に成り、改訂新版のベースボールマガジン版や『JGA55年の歩み』にも踏襲された。

その事と掲載の水谷の写真の出典が出ていない事と彼とパイオニアとして有名であった新井領一郎の写真のキャプションが『JGA55年』では逆であった事もあり、撮影した小笠原が『JGA55年』の不正確さについて述べていた自身の連載で、水谷の話は下村海南の紹介であり原稿を編集し写真を撮ったのは自分であるのにも関わらず同年の『Golf Dom』にもそういった事は載っていないのはどういう事なのだろうか?と批判する出来事があった。因みに下村海南は第二回八十路会について『Golf Dom』1940年6月号に寄稿しており、集合写真に水谷も写っている。が、彼単体の写真は無く下村の文も当日の状況と結果しか報じていない。また第一回についても触れているが参加できなかった人に関する囲み記事である。

 

        ブレに関する考察

筆者もなぜこうなったのか?とリアルタイム記事を調べてから疑問が尽きず、先述の各書籍や記事を調べ直してみた。

摂津が挙げた説について、当時の『Golf Dom』の奥付を見ると編集兼発行人は野村清で在り、沢寿郎ではない。しかし30年代に同社が東京に移転した際には沢が記者・編集をしていた事が本人の回想や、当時の記事で確認でき、摂津の『サムライのゴルフ』における水谷叔彦についての記述では、先述の話の他に沢から女優の水谷八重子が水谷の親戚に当ると聞いたので、同著の執筆に当たりゴルフダイジェスト経由で尋ねた所「彼女から心当たりはない」と返信が来た話を載せている。摂津は彼から水谷に関する話を聞いていたのは間違いが無いようである。

ではなぜこのような事に成ったのか、沢が別の記者の取材を又聞きで語ったとするのでないのならば、次の事が考えられる

・水谷の回想記事に『(略)上掲の一文は八十路會競技當日翁が物語られた回顧談の一節をまとめたものである。記者(原文ママ)』と有るので、1940年に沢が聞いたのを3年後に掲載した。

・その後の競技会(この号の前の月5月に行われており、年に2回ほど行われているのを1943年9月まで確認)での話の聞き取りで在るのを摂津が1940年と間違えた。

個人的には2番目の説でないかと推察するのであるが、どちらでも無いとなると、摂津のミスに成るが、彼の取材ノートが残っていれば情報の出所が確認出来るのだが…

(※年時の表記については原文では年号である)

 

        表に出てこなかった理由とは

話が横にそれてしまったが、八十路会での歓談まで、水谷がゴルファーのパイオニアとしての存在が知られていなかった事について、調査をしたところ、以下の経歴が理由のようだ。

英国からの帰国後彼は専門分野の著作『軍艦機関設計一斑(五冊・1899年)』書き上げるところから始まって1913年2月に海軍少将で予備役に回るまでの間、横須賀や呉の鎮守府に着任し、海軍機関学校教官、工兵廠機関部部長、造船監察官など専門分野に加え海軍大学の教官を務める等多忙であった。(ゴルフ史家井上勝純氏の調査では海外出張もあったという)更に予備役に回る前年の1912年1月から、室蘭の日本製鋼に着任を始め(北海道の実業家であった栗林五朔の追悼集に載せた水谷の文より)軍需会社の重役を務める等している。

 つまり帰国時はゴルフが日本で始まる前であり、始まってからもコースの有る場所から離れて暮らして居た為、プレーをする機会が無い及び同時代のゴルファー達に会う機会が無かったと考察する。

とはいえ、この期間でも海外出張時や、着任先の空き地や練兵場等でボールを打っていた可能性はあるが、これは推測にすぎない。しかし後年室蘭では行っており、裏方として北海道ゴルフに足跡を残している

 

        彼が北に残した足跡 

水谷が室蘭の日本製鋼に着任してから大分経った1929年夏、彼が休憩時に会社の敷地内でクラブを振って愉しんでいるのを見た職員達が「これは面白そうだ」と興味を示した(更に最初の日本アマチュア邦人参加者である一色虎児が同社に居たのも大きかったろう)事から、1929年12月4日北海道で三番目の倶楽部となるイタンキGC(現室蘭GC)の創立に至り、水谷が実質的なコース設計者となっている(翌年5月3日9ホールで開場)。ただ、配属から周囲のゴルフ熱が出るまでの十数年のタイムラグが判らないが、これは一度日本製鋼を離れ、井上氏の調査にある別の海軍系軍需会社へ行っていたのであろうか?

ともあれ、半島の湾に面した海岸線に造られイタンキと呼ばれた今は亡きコースは九ホールながら日本とは思えないような風景の本格的リンクスとして注目され、1933年に来訪した下村海南博士は、木が無い事を欠点としながらも、その起伏や天然のバンカーが『その変化に富める豪壮な風光』と表現している。戦後、倶楽部は宅地問題から内陸に移転した為コースは破棄され公園となったが、跡地を見に行った方によると芝を刈りバンカーを掘り直せばすぐプレーが出来る状態であったという。

日本人としてクラブを最初に振っていた彼は時節に恵まれず、黎明期のゴルフの発展の中に入る機会もなく、注目を集めるまでに非常な時間が掛ったが、最初の邦人ゴルファーであると共に、北の地にゴルフの種を撒いた一人として名前が残った事は喜ばしい事である

 

 

年表

1893 英国留学

1895 ブラックヒースでゴルフを見物(3月27日)、この年には始める?

1896 ブラックヒースでプレー(1月1日)、記録に残る最初のゴルフプレー

1898~1912 帰国 横須賀・呉・室蘭に居た為、他のゴルファー達に触れる機会が無かった模様

1912 室蘭の現日本製鋼に就任(1月)

1913 海軍少将として予備役となる(2/12)

年次不明 東京GC入会(1941年の移転に際し退会)

1928 室蘭GCの発足に関る

1936 娘婿の明石和衛が富士GCを創立

1939 八十路会により最初のゴルファーと注目を集める

1940 彼のプレーした年代が『Golf(目黒書店)』に写真と共に紹介

1941 東京GC退会

1943 『日本打球(Golf Dom)』6月号に回想掲載

1947 死去

 

主な参考資料

・Golf Dom1940~43年分合本 ※呼び名は便宜の為『Golf Dom』で統一

1940年6月号

『日本打球(旧Golf Dom)』1943年6月号P20-21『老ゴルファーの思ひ出』

・Golf(目黒書店)1939-40年合本

1939年12月号P8-9『七十才以上のゴルファーだけを集めて八十路会トーナメント生る 八十路会』 下村海南

1940年6月号P 18-21『第2回八十路會ゴルフ競技』 同P22-24 下村海南『第二回の八十路會』

・週刊パーゴルフ1981年10月13日号 小笠原勇八 『真相日本のゴルフ史㊿』

・月刊ゴルフマネジメント1994年2月15日号P136-141  井上勝純 『日本のゴルフコース90年の歴史を探る ゴルフ倶楽部を考える第94回 イタンキ浜に室蘭ゴルフ倶楽部開場』

・日本ゴルフ60年史 摂津茂和   有明書房 1960

・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン1977

・サムライのゴルフ   摂津茂和   風光社    1972

・日本ゴルフ協会七十年史       日本ゴルフ協会      1994

・東京ゴルフ俱楽部75年史・同100年史     東京ゴルフ倶楽部 1989,2015

・Royal Black Heath  Ian Henderson & David Stark 1981

・Golfing Annual1896-97 編David Scott Duncan

・グリーン物語、北海道ゴルフの歩み 北海道新聞社 監修小笠原勇八、福島靖、菅原康雄 1984

・八代海軍大将書簡集  八代六郎 城山会編 尾張徳川黎明会 1941

・栗林五朔翁追悼集   薫堂会 1940

・官報1887年5月6日付、1901年7月7日付、1907年4月10日付、1908年2月10日付、1913年2月12日付

(※史料は著者所蔵他JGA資料室及び国会図書館等で閲覧)

 

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

技術やスキルを身につける〜「PCM」アカデミー発足!

 

ゴルファーに「喜ばれる人」になろう!

・「プロフェッショナル」フィッティング

・「プロファイル」フィッティング

・「ギア&スイング」レッスン

・「PCM Labo」診断

etc…各種セミナーを開催受付中です。

個人:各種セミナー¥30,000/1day

※法人様プランもございます。

【お問合せ】はinfo@pcm-lab.comまで

 

 

フィリピン・セブ【ゴルフ三昧】できる『LILOAN GOLF』UGシステム

http://liloangolfclub.com

(人気動画メディア「ringolf」で公開

 

 

 

ページ上部へ戻る